ザ・クロマニヨンズのライブに行った
昨日のことが全く頭から離れなくて、1日経ってもまだ興奮している。
ザ・クロマニヨンズ ツアー
月へひととび
なんばHatchでのライブのことだ。
(以下、一部セットリストのネタバレを含みます。見たくない方は自衛をお願い致します)
人生初の、ザ・クロマニヨンズのライブ。
ライブ会場の待機列で隣の人に話しかけたのは昨日が初めてだった。この人と話してみたい、話しかけようと思うこと自体も初めてだった。うまく言えないが、話しかけたお二人に対して「この人がどんな思いでこのライブに来たのか知りたい」と感じた。
お二人とも気さくに話してくださり、お二人共が長年ザ・クロマニヨンズのファンで、大阪でのワンマンライブにはほぼ参戦しているとのことだった。
「なかなか当たらないから。今回も頑張ってチケット取ったんだよ」
「ライブのために頑張ってるって感じ。生きがいだね」
「ブルハのときから追ってるんだ」
宝物を見せるときのように話してくれた瞳が忘れられない。
入場して、観客の幅広い年齢層に少し驚く。10代と思しき少年が、有線の白いイヤホンで音楽を聞きながら、まだ誰もいないステージを食い入るように見つめていた。自分のように、1人で参戦している人も多いようだった。
ライブが始まる前に、甲本ヒロトが登場し、ライブでの注意事項を丁寧に述べていく。一言一句、はっきりと。
これまで参加してきたライブで、ボーカル自らが注意喚起する姿を見たことはなかった。誰かや何かに言わせるのではなく、自らが発信する姿を、格好いいと思った。
ライブは爆音、もはや轟音と共に始まる。
なにが始まったのか、しばらく分からなかった。あまりにも強い音。強い声。物理的な強さではなく、頭に一気に流れ込んでくるような勢いに、圧倒された。観客の腕の波にまみれ、熱狂のなかにいることを自覚し、やっと気づいた。これはライブ。生きている音だ。
呆然としている間、マーシーと目があった気がする。観客を通して違う何かを見ているように、それでいて、観客1人1人を見つめ「よく来たな」と語りかけてくるような、澄んだ瞳だった。
マーシーもヒロトも子どものような無邪気な笑顔で笑ってくれて、笑い返した。その姿のすべてが、音楽が楽しいと言葉なく叫んでいた。
いつしか腕を振っていた。膝はリズムを刻んだ。身体全体が踊っていた。嬉しかった。音楽が好きだと体中が叫んでいた。実は、初めて聴く曲ばかりでコールも振りも知らなかったけど、そんなことはどうでもよかった。聞こえてくる音に身を任せれば、自然と湧いてきた。
甲本ヒロトは歌いながら踊り、踊りながら歌っていて、その姿を何回も動画やDVD越しに見てきたにも関わらず、その躍動を「見る」ことは出来なかった。
ときに、何か凄いものに出会ったとき、それを思い返そうとしても「あれは一体何だったんだろう」とうまく言葉や表現が見つからないことがある(私にとって、それはスリランカのシーギリヤロック遺跡や、ルーブルのモナリザや、チョコレート・ドーナツという洋画、西加奈子のサラバ!という物語などだ)
ステージ上での甲本ヒロトは、まさにそれだった。いったい何なんだろう。どうしてこんなに揺さぶられるのか。およそ言葉に収められるような代物ではなかった。
全力で歌った直後、ダイナミックにハーモニカを奏でる彼の姿が目に焼き付いている。
エイトビートという曲で
ただ生きる 生きてやる
呼吸を止めてなるものか
という歌詞が聞こえてきた瞬間、泣いてしまった。
あまりにも輝く笑顔で言うから、エネルギーが心の奥底から湧いてきた。いったい私はこんなに大きい生への意思をどこに隠しもっていたんだろうか。
嗚咽を堪えながらステージを見つめた。一秒も聞き逃したり、見逃したく無かった。
私は全く音楽の専門家ではないけれど、それでも、(言い方が正しくないかもしれないが)演奏のレベルの高さを肌で感じた。すべての音に無駄がなく、研ぎ澄まされ、無骨で、そして同時にとても繊細できめ細やかだった。果てのないたくさんの努力のもとにある音なんだろうなと思いを馳せた。
親にライブでのことを話すと、
「本物のロッカーやからね」と返ってきた。本物とは何なのか?私にはまだ分からない。
けれどライブの終わりで甲本ヒロトが声高に叫んだ
「ロックンロール!」
という声はいつまでも、耳に残っている。
とってもカッコ良かった。
最高に熱い夜でした
ありがとうクロマニヨンズ
江口のりこさんが大好きだ
女優江口のりこが大好きである。
他にも好きな俳優はいるが、自分にとって彼女は特別な存在だ。
烏滸がましいのを承知の上で、彼女を漢字一文字で表現するとおそらく「凛」ではないかと思う。その凛とした佇まいを見ていると、心の中にかかった靄がすっきりと消えていくような感覚になる。
初めて彼女を知ったのは、ドラマの番宣のために出演していた朝番組だった。
トーク番組で芸人と話しているときでも、一般人と会話しているときでも、大御所タレントと一対一で向き合っているときでも、接し方が全く変わらない。人によって接し方を変えないところがとても魅力的だ。また、軽快なテンポで繰り広げられる、歯に衣着せぬ軽妙なトークが癖になる面白さでたまらない。話のオチも秀逸で聞いていて楽しい(とくに安住紳一郎の日曜天国で話されていた狐の話は、思わぬオチにドキリとさせられた)。
ソロ活女子のすすめというドラマも毎回とても楽しく見ており、彼女が尋ねる場所はもちろん毎回のファッションにもわくわくと心を躍らせていた(DVD発売を熱烈に希望します)。
彼女を生で観てみたい。演技しているところを観てみたいという思いが募り、昨年末にツダマンの世界という舞台を見に行った。舞台からはかなり遠い席だったが、彼女の凜とした涼やかな声は、一言一句すべてはっきりと客席まで届いた。彼女の演じた役柄は最後までミステリアスで、腹の内が読めそうで読めないような性格だったが、その演技は役柄を演じていることを忘れるほどにとても自然だった。
最後のシーンで登場したとき彼女が発した謎めいたセリフに、背筋がぞくりとした。そして付随して起きた観客の静かなざわめき、そして余韻は今でもはっきりと思い出せる。彼女の和装姿がよく似合っており、とても綺麗だったことも印象深い。
舞台が全体を通してとても面白かったこともあり、彼女の演技している姿をもっと観たいという思いがいっそう強くなったため、舞台パラサイトのチケットも取った。非常に楽しみで仕方がない。
このブログもYouTubeにアップされている「無学 鶴の間」の江口のりこゲスト回を見ながら書いている。江口さんと鶴瓶師匠のさっぱりとしたトークが面白く、また江口さんの茨木のり子の詩の朗読は静かに心に染み入るような響きで、何度も聞き返そうと思っている。
これまで何度かアイドルをすきになることはあったが、女優さんをここまで好きになったのは初めてで、日々楽しい。江口さんに出会わなければ見なかった映画や舞台がこれからもたくさん増えていく予感があり、感謝している。
江口さんがこれからも健康で楽しく過ごせますように。江口さんの話している姿や演技を見ることが何よりの喜びである。これから江口さんを通してどんな舞台や世界観に出会えるのかとてもとても、楽しみだ。
人は変われないのか問題
「なんか最近この人変だ。なんか変わったぞ」
そう感じることがつい最近あった。より具体的に言うと、こちらの言い分には耳を貸さずに自分の意見を振りかざすようになった、ように感じる。そのくせに当の本人は真顔で「人は変われない!だから自分がまず変わる!」と言い放ってくるのだから呆れを通り越して笑えてくる。しかも、年齢のことを言い訳にして「こんなこと言われるのも今だけだ。そのうち誰も何も言ってくれなくなる」とまで言い始めた。あれ感謝すら期待されてるんですか?いや「変われない」ってどの口が?その理論でいくと「人」が変われないのになぜ「私」だけは変われることになるんですか?
そして後日、オブラートに包みつつ、けれど必死で不満を相手に訴えてみたら「気分の浮き沈みが見られます。気をつけましょう。」と告げられた。ああ口から何か出ちゃいけないものが溢れ出そうなんですけど…。あははは。Ahahaha。ソウデスネエ。あゝ何も面白くないです。
空虚な笑みを浮かべコクコク頷きその場をやり過ごしながら考えたのが、「本当に人は変われないのか」という問題である。
自分のことを全く顧みず、かつ特に何の根拠も提示せずに「人は変われない」と他人に言い放ち、論破したようなしたり顔で頷く人には、これまで何人も出会ったことがある。
おいおい、ほんとか?それ、あんたが変わりたく無いから言い訳がわりに言ってるだけでは?免罪符のつもりですかい…。
「甘い。綺麗事だ」と言われるかもしれないけれど、いつかこのブログを読み返したとき少しでも「ギクッ」としてもらいたいという自戒の気持ちも込めて、こう書きたい。
「自分」はたぶん変われる、いくつになっても。そう信じたいです。
それは「自分、変わった」というターニングポイントを人生の節目で感じられているからだ。それがいい意味での変化かどうかは分からないし、自分のなかで美化されている部分も多くあるのは事実だ。けれどそのポイントが今を作っていると思っていて、そのすべてを言語化するのは難しいけれど、確かに自分のなかで証拠となって胸の中にありいつでも会える。だから変われると思う。
けれど三つ子の魂百までという言葉もある、変われない部分もあるかもしれない。別にそれは仕方あるまい、他人に変化を強いられたり押し付けられたり、また強いたり押し付けるのは違う。自ら変わりたいと思わない限りそのままでいたい。
…こういう気持ちは臆病というんだろうか。出来るだけ自分を守りたい、という気持ちの現れなんだろうか。たしかに私の心が件の話で傷ついたように、予期せぬ変化は必ずあるし、気づかずに人を傷つけて傷つけられて、または癒し癒されて、心はどんどん変化していくものだとは思う。
けれど声を大にしていいたい。もし何方かが、誰かに「変われ」と言うならばあなたがまず変わってくださいと。または変わった過去を曝け出して下さいと。
自分は棚に上げて他人にだけそれを求めるのはあまりに、卑怯だよ。
そんなことを考えながら、いつか自分に訪れる「ギクッ」の瞬間を空想して凍えそうになる、年の暮れであった。
今日の1曲:Dororo/ASIAN KING-FU GENERATION
さみしさは原動力
突然。寂しいという感情に押しつぶされそうになったことはないか。
私はある。おおいにある。それは突然にやってくる。こちらは全く用意ができていないために、素足で雪に触れた時のように、冷たさに凍える。さむい。しかしそれを即座にそばで温めてくれるようなニンゲンは、そういう時に限って不在なのである。納得いかない。ついさっきまでいたのに。ただ呼び戻すためのエネルギーはもうない。ああもうこんなにも寒い。
ひとしきり寒がったあとに降ってくるのは疲労感や無力感である。
ああもうどうでもいいな。悲しいよ。
おざなりに全てを投げ出してしまいたくなる。ありえないと分かっているがここまでも人生、一人で生まれ一人で生きてきたような気がする。そんなはずはないのだが。
しかしそんな気持ちを呼び止めるものがあった。
それは創作活動だった。
ひたすら別人格を書く。そのひととき、私はもはやわたしではない別の誰かだ。性別外見性格全て違う。そんな人間たちの歩みに思いを馳せる。人間的な成長に心を砕く。自分で書いているはずなのに全くこちらの思い通りにいかない。彼方此方へ脱線し、彼方此方から戻ってくるそれらと、対話を繰り返す。
すると色々なものから解脱する。何一つ現実は変わっておらず正体不明の寂しさは続く。しかしどうだ。わたしには私でない誰かがいるし、実在しない誰かのなかにワタシがいる。
それが全て人生に内包されていると思う時、もはや孤独ではない。いや究極の孤独ともいえるか。自分の世界の中で勝手に自己完結しているだけだ。でもそれだけのことがこんなにも難しく、こんなにも楽しく、愛おしいとは。
いったい幾つあるんだろう。私の中の感情。思い出。考え。
沢山ある。その沢山の中から生まれた、まだ名前も無いその登場人物。いつか、いつか、物語にして、言葉にしたい。
大したことない。取るに足らない。自己満足。無駄。自分のなかからそんな声も聞こえる。だが構うものか。楽しいいい。楽しいからしている。そして知りたいからしている。何を。自分をだ。そして、まだ見たことのない世界を、言葉を通して映し出すために。
まだまだ続けよう。もしも世界に残るたった一人になったとしても。書きたいと思った。そんな12月の夜。今はまだ名前の無いこの夜のことも、きっと、言葉にしたい。
I WISH
私の生活は、基本的には至極単調である。毎朝ほぼ同じ時間に起床し、同じような朝食を食べ、同じ自転車に乗り、同じ職場へ行き、同じような業務に奔走し、同じような時間に退勤し、同じ自転車で家に帰る。そんな日々に七割満足し残り三割はそこはかとない不安や不満を抱いているけれど、あえて口に出したりはしない。けれど心は確かに澱んでいくのは分かっていて、冷房の効きすぎた社員食堂で窓の外を見ながら昼食を食べているとき、もし今この瞬間「全日本・目が死んでいる奴選手権」が開催されたらもしかしたら上位入賞できるかもしれないと空想する。
そして心の中でこっそり歌ってみる。
「あ~いとしいあの人
お昼ごはん なに食べたんだろう?」
分かる人には分かるだろうが、これはモーニング娘。の楽曲ザ☆ピース!の歌詞である。(厳密に言うとセリフである)
ここだけ読むと、食事中にポエムを口ずさむ大分痛い奴に思えるかもしれないので弁解させていただきたい。私は単純に、モーニング娘。ひいては、彼らが所属するハロー!プロジェクトのファンなのである。
(以下数行にわたり、オタクの戯言が続くので覚悟してください。)
私がモーニング娘。に出会ったのは幼稚園生の頃であった。ミニモニ。のことが好きで、彼らをデフォルメしたキャラクターのイラストが描かれたピンクのスニーカーが大のお気に入りだった。けれど興味は長続きせず、私はその後の人生で彼らに思いを馳せることはほとんどなかった。しかし、人類が未知のウイルスに右往左往し大騒ぎしているさなか、転機は突然に訪れた。床に寝転がりながら動画サイトをいじっていると、そこには現在のモーニング娘。が野外ライブで歌い踊る様が映し出された。灼熱の中、持ち時間のほぼすべてをライブパフォーマンスに充て、灼熱のステージで生の歌声を轟かせ、広いステージを縦横無尽に駆け回るその姿に、目が離せなくなった。
かくしてモーニング娘。のファンになった私は、そこからモーニング娘。が所属するハロー!プロジェクトの他のアイドルグループにも興味関心を持つようになり、さらに「推し」が増えていくことになるのだが、その詳細まで述べると日が暮れるので割愛する。
(以上、オタクの戯言でした。お付き合いありがとうございます。)
代わり映えのない日常の中で、キラキラに着飾った美少女たちが愛や平和を願いながら歌い踊る姿を見ること・そして彼女たちを全力で応援する瞬間が、疲れた心を癒す非日常体験になっている。歌詞を心の中で口ずさんだり、歌詞の世界観に思いを馳せたり、推しのことを考えたり…非日常を日常に落とし込みながら、なんとか日々を繋いでいく。生きることは楽ではないけれど、モーニング娘。は「DANCEするのだ!」という楽曲の中でこう歌っている。
「まだ長い長い人生を少し
駆け出したばかり
AH青春は上り坂もあるさ
でも長い長い人生をきっと 自分色に染めて
絶対にゴールするのだ
この汗を拭きながら」
これからの人生、何が起きるかは分からない。けれど私も、彼女たちの楽曲に励まされながら一歩ずつ歩んでいきたいと思いながら、今日も仕事へ出発する私であった。
P.S 明後日、ハロプロ推し活初の遠征&バースデーイベント初参戦を前に胸がドキドキしています。全力で楽しみます!!
One and onlyな音楽
なにか、大切なことを忘れている気がする。
今をときめく有名アーティストのライブ(ハロープロジェクト関係ではありません)終演時のことだ。わたしは鳥肌を摩りながら、その理由について思いを巡らせた。
先日行ったそのライブは楽しかった。楽しかったが、途中から違和感ばかりが募って楽しめなかった。
綺麗事を繰り返す歌詞に耳を塞ぎたくなった。動画サイトでのバズりを念頭に置いたであろう不自然な振り付けも、ステージに立つ人の性別が限定されていることにも、疑念を抱いた。過度な演出は、シンプルで美しい旋律を台無しにしているとさえ感じた。
周りは皆、曲に合わせ踊ったり手を振っている。教祖のようにステージに立つその人を怖いと思った。それは、これまで他のアーティストやアイドルのライブに行ったときには抱かなかった、初めての感情だった。
イヤホン越しではあんなに美しく感じたはずなのに何故。
確かに楽しみにしていたライブだったのにどうして。
「みんな大切だ」「みんな味方だ」「過去にあったことも水に流そう、大丈夫だよ」…そんな概念の歌詞の洪水に、私はもう倒れそうだった。
久々の大きな会場でのライブで人酔いし、疲弊していたのかもしれない。好きになれない、盛り上がれない、早く家に帰りたい。そんなふうに思っている自分は悪なのではないかと、無数に揺れる腕を茫然と見つめながら考えた。それでも盛り上がりたくはなかった。私は子どもの頃のことを思い出した。
1人のクラスメイトが大勢にからかわれ、笑われていた。そのとき私は頑なに唇を噛み締めた。笑ってはいけない、笑ったら一生後悔する、笑っては駄目だと。
またある時、いじめの現場に抗議した私や友人に、教師が「〇〇さん達(いじめた側)も謝ったんだからそろそろ許してあげなさい」と言った。友人は渋々頷いたが、私は頑なに頷かなかった。1度や2度じゃない私の、あの子の傷を、あんなに心のこもっていないたった一言で忘れなさいだって?無理だよ、忘れるわけないだろう。
そのアーティストのことを「加害者」たちと一緒にするつもりはない。けれど、美辞麗句ばかり並べるその人は、きっと明るい人に囲まれて生きてきたんだろうなと他人事のように考えた。大勢の熱狂の渦にあって、自分だけ急速に気持ちが冷めていくのを感じた。そのアーティストのことがとてつもなく遠くに感じられた。太宰治のトカトントンという随筆のことを思った。これは「みんな」のための音楽だ。けれど、その「みんな」から零れ落ちた自分はどうすればいい?
ライブの翌日は、ほとんど動けなかった。あんなに好きだったはずの気持ちが萎んで、ぽっかりと穴が空いてしまったようだった。楽しめなかったことに罪悪感を抱き、自己嫌悪に陥った。精神的に疲れていた。後ろの席の誰かが「〇〇のライブで棒立ちしてる奴いて最悪、興味ないなら来るな」などとSNSに投稿していないか怖かった。案の定、SNSにはライブへの好意的な声ばかり溢れており、途中で見るのをやめた。
お気に入りのプレイリストを再生しても、落ち込んでいるせいかどれもしっくり来ない。探し続け、たった一つの曲を求めていることに気づく。
ハルカトミユキの、その日がきたら。
それは私を「音楽」に出会わせてくれた曲だった。
大衆のための音楽ではなくたった一人、自分のための音楽。
初めて聴いた時の「なんでこんなに私のことが分かるの」「この世界に自分と同じことを考えている人がいるんだ」「これは私のための曲だ」という胸に溢れる思い。
それはそのまま、「なにか、大切なことを忘れている気がする」という問いへの答えだった。
どんなライブにも大体そんなふうに感じられる瞬間があるものだが、前述のライブには、自分にとってそう感じられる一瞬が無かっただけなのだ。それだけのことだ。
負の感情は悪だと強迫観念のように考え、必死に抑え込んでいた中学生の自分に、ハルカトミユキが「何を思ってもいい、考えたっていい、大丈夫」と語りかけてくれたことをゆっくりと思い出した。そして彼らの音楽を聴きながら「今回のことは少し残念だったけれど、音楽の捉え方は心の状態によっても違うし、相性もあるし、仕方がない。またいつか楽しめるといいな」と前向きに考えられるようになった(丸1日かけて…)。
とにかくこのライブには考えさせることが多く、良い経験になった。こうして人は学んでいくのだなとしみじみ感じている。
次はどんなライブに行こうかな。でも次からは、もうちょっと考えてから行こう。
予定はありません。
今日はもう予定はありません、と携帯に表示されている。
この言葉にホッと息をついた。
もうなにもしなくていいんだという安堵感。安心して心をどこかに投げ出して、ほっと息を吐く。
あれが欲しい、それを買いに行かなきゃ
あの人に会いたい、連絡しなきゃ
あの映画みたい、観に行かなきゃ
SNSに返信しなきゃ
部屋を片付けなきゃ
色々と考えることは多くて
そのぶんカロリーをすり減らす、疲れる
いったいなにをして生きてるんだろうとしんどくなる日もある
けれどそんなことを考えても答えは出ないから
テキトーにご飯を作って
銀魂を観て笑って風呂に入って
今日は早く寝よう。
銀魂のアニメを観始めて2週間くらい。ギャグな日常やキャラクターの掛け合いが面白くて、飽きずに観ている
まだシーズン1なので、これからどんなドタバタが待ち受けているのか楽しみだ
銀さんの、メチャクチャな行動をしてるのに本人なりの信念を貫くところとか、真剣なのかふざけてるのか何考えてるかよくわからないところが好きです。