親愛なる誰かさんへ。

日常、雑念、世界。

One and onlyな音楽

なにか、大切なことを忘れている気がする。

今をときめく有名アーティストのライブ(ハロープロジェクト関係ではありません)終演時のことだ。わたしは鳥肌を摩りながら、その理由について思いを巡らせた。

 

先日行ったそのライブは楽しかった。楽しかったが、途中から違和感ばかりが募って楽しめなかった。

綺麗事を繰り返す歌詞に耳を塞ぎたくなった。動画サイトでのバズりを念頭に置いたであろう不自然な振り付けも、ステージに立つ人の性別が限定されていることにも、疑念を抱いた。過度な演出は、シンプルで美しい旋律を台無しにしているとさえ感じた。

周りは皆、曲に合わせ踊ったり手を振っている。教祖のようにステージに立つその人を怖いと思った。それは、これまで他のアーティストやアイドルのライブに行ったときには抱かなかった、初めての感情だった。

イヤホン越しではあんなに美しく感じたはずなのに何故。

確かに楽しみにしていたライブだったのにどうして。

「みんな大切だ」「みんな味方だ」「過去にあったことも水に流そう、大丈夫だよ」…そんな概念の歌詞の洪水に、私はもう倒れそうだった。

久々の大きな会場でのライブで人酔いし、疲弊していたのかもしれない。好きになれない、盛り上がれない、早く家に帰りたい。そんなふうに思っている自分は悪なのではないかと、無数に揺れる腕を茫然と見つめながら考えた。それでも盛り上がりたくはなかった。私は子どもの頃のことを思い出した。

1人のクラスメイトが大勢にからかわれ、笑われていた。そのとき私は頑なに唇を噛み締めた。笑ってはいけない、笑ったら一生後悔する、笑っては駄目だと。

またある時、いじめの現場に抗議した私や友人に、教師が「〇〇さん達(いじめた側)も謝ったんだからそろそろ許してあげなさい」と言った。友人は渋々頷いたが、私は頑なに頷かなかった。1度や2度じゃない私の、あの子の傷を、あんなに心のこもっていないたった一言で忘れなさいだって?無理だよ、忘れるわけないだろう。

 

そのアーティストのことを「加害者」たちと一緒にするつもりはない。けれど、美辞麗句ばかり並べるその人は、きっと明るい人に囲まれて生きてきたんだろうなと他人事のように考えた。大勢の熱狂の渦にあって、自分だけ急速に気持ちが冷めていくのを感じた。そのアーティストのことがとてつもなく遠くに感じられた。太宰治トカトントンという随筆のことを思った。これは「みんな」のための音楽だ。けれど、その「みんな」から零れ落ちた自分はどうすればいい?

 

ライブの翌日は、ほとんど動けなかった。あんなに好きだったはずの気持ちが萎んで、ぽっかりと穴が空いてしまったようだった。楽しめなかったことに罪悪感を抱き、自己嫌悪に陥った。精神的に疲れていた。後ろの席の誰かが「〇〇のライブで棒立ちしてる奴いて最悪、興味ないなら来るな」などとSNSに投稿していないか怖かった。案の定、SNSにはライブへの好意的な声ばかり溢れており、途中で見るのをやめた。

お気に入りのプレイリストを再生しても、落ち込んでいるせいかどれもしっくり来ない。探し続け、たった一つの曲を求めていることに気づく。

ハルカトミユキの、その日がきたら。

それは私を「音楽」に出会わせてくれた曲だった。

大衆のための音楽ではなくたった一人、自分のための音楽。

初めて聴いた時の「なんでこんなに私のことが分かるの」「この世界に自分と同じことを考えている人がいるんだ」「これは私のための曲だ」という胸に溢れる思い。

それはそのまま、「なにか、大切なことを忘れている気がする」という問いへの答えだった。

どんなライブにも大体そんなふうに感じられる瞬間があるものだが、前述のライブには、自分にとってそう感じられる一瞬が無かっただけなのだ。それだけのことだ。

負の感情は悪だと強迫観念のように考え、必死に抑え込んでいた中学生の自分に、ハルカトミユキが「何を思ってもいい、考えたっていい、大丈夫」と語りかけてくれたことをゆっくりと思い出した。そして彼らの音楽を聴きながら「今回のことは少し残念だったけれど、音楽の捉え方は心の状態によっても違うし、相性もあるし、仕方がない。またいつか楽しめるといいな」と前向きに考えられるようになった(丸1日かけて…)。
とにかくこのライブには考えさせることが多く、良い経験になった。こうして人は学んでいくのだなとしみじみ感じている。

次はどんなライブに行こうかな。でも次からは、もうちょっと考えてから行こう。