親愛なる誰かさんへ。

日常、雑念、世界。

四月の終わり、自転車に乗って

きっかけは父の些細な一言。「することないなら、自転車でばあちゃんの家に行ってみたら?」

正直最初は気が進まなかった。祖母の家までは自宅から20キロ近くある。普段あまり運動していないのに加えて、地図を読むのが下手な私は、スタミナが足りなくなり、辿り着けずに迷子になることを恐れていた。

しかし、ステイホーム週間が始まってから気持ちがクサクサしているのは事実だった。結局は、電動アシストの力を借りて、自転車で出かけることに決めた。人混みの多い場所は通らず、寄り道もせず、まっすぐに、親戚の家を目指して走り出した。少なくとも5回は道を間違え引き返したためか、漕いでも漕いでも目的地にたどり着かない。それでも、私の心は高鳴っていた。木々の緑、流れる川の水色、澄んだ空のソーダ色。そういう自然は、家の中では決して見ることのできない美しさをもって、堂々とただそこに在った。

公園を歩く人々の声。建ち並ぶ家々。こんなにたくさん人がいて、家があるのに、わたしの知り合いとは誰ともすれ違わないし、わたしのことを待っている家は、祖母の家と実家だけだ。寂しいな、こんなにたくさんの人と同じ時代を生きているのに。仕方ないことだとわかってはいるけれど、そこはかとない哀愁を感じて、わたしはたまらなく切なくなった。はやく祖母に会いたくて、自転車を漕ぐスピードを速めた。そして考えた。人との付き合いは難しく、たまに相容れないこともある。だけど、こんなにたくさんの人が生きてる世界で、その人に出会えたことはものすごいことだ。

だからって、急に近づいて好きになろうとしても、結局「合わないもんは合わん!」という結論に達することが殆どだ。ただ、人との出会いなんてただの偶然だと、わかったような顔で語る大人にはなりたくない。

自転車は走る。あ、また道間違えた…

そうしてまた考える。自転車は人生みたいだ。どんなに間違えても、キツイ坂道でも、進み続ければ、どこかに辿り着く。本来の目的地じゃない場所に、大きな魅力を感じてしまい、そこにゴールを決めることもあるだろう。距離の長さじゃなくて、目的地の偉大さでもなくて、大事なのはその過程。どんなもの、人、景色に出会ってきたのか、なにを感じてきたのか。たまに現れる選択肢に、試される。どこに行きたいのか、何をしたいのかを。怯む。引き返したくなる。たまに、自転車から降りてしまいたくなる。

それでも、サドルにまたがり、道を探し続けていれば、どこかに辿り着く。だから、走り続けたらいい、それだけでいい、そう思えたら、わたしはこの時に厄介で面倒な人生という道を、走れる気がした。思わぬところに、新鮮な輝きがある。その輝きを見つけられる大人であり続けたい、いくつになっても。

自転車はついに、祖母の家に辿り着く。明るかった空は気づけば夕陽のオレンジ。温かい風はすこし冷たくなっていた。見慣れたドアを開ける。おかえりの声。

私は久しぶりに、清々しい達成感と共に、声をあげた。「ただいま!」

明日からの道もまた走っていけるような、明るい声で。