人は変われないのか問題
「なんか最近この人変だ。なんか変わったぞ」
そう感じることがつい最近あった。より具体的に言うと、こちらの言い分には耳を貸さずに自分の意見を振りかざすようになった、ように感じる。そのくせに当の本人は真顔で「人は変われない!だから自分がまず変わる!」と言い放ってくるのだから呆れを通り越して笑えてくる。しかも、年齢のことを言い訳にして「こんなこと言われるのも今だけだ。そのうち誰も何も言ってくれなくなる」とまで言い始めた。あれ感謝すら期待されてるんですか?いや「変われない」ってどの口が?その理論でいくと「人」が変われないのになぜ「私」だけは変われることになるんですか?
そして後日、オブラートに包みつつ、けれど必死で不満を相手に訴えてみたら「気分の浮き沈みが見られます。気をつけましょう。」と告げられた。ああ口から何か出ちゃいけないものが溢れ出そうなんですけど…。あははは。Ahahaha。ソウデスネエ。あゝ何も面白くないです。
空虚な笑みを浮かべコクコク頷きその場をやり過ごしながら考えたのが、「本当に人は変われないのか」という問題である。
自分のことを全く顧みず、かつ特に何の根拠も提示せずに「人は変われない」と他人に言い放ち、論破したようなしたり顔で頷く人には、これまで何人も出会ったことがある。
おいおい、ほんとか?それ、あんたが変わりたく無いから言い訳がわりに言ってるだけでは?免罪符のつもりですかい…。
「甘い。綺麗事だ」と言われるかもしれないけれど、いつかこのブログを読み返したとき少しでも「ギクッ」としてもらいたいという自戒の気持ちも込めて、こう書きたい。
「自分」はたぶん変われる、いくつになっても。そう信じたいです。
それは「自分、変わった」というターニングポイントを人生の節目で感じられているからだ。それがいい意味での変化かどうかは分からないし、自分のなかで美化されている部分も多くあるのは事実だ。けれどそのポイントが今を作っていると思っていて、そのすべてを言語化するのは難しいけれど、確かに自分のなかで証拠となって胸の中にありいつでも会える。だから変われると思う。
けれど三つ子の魂百までという言葉もある、変われない部分もあるかもしれない。別にそれは仕方あるまい、他人に変化を強いられたり押し付けられたり、また強いたり押し付けるのは違う。自ら変わりたいと思わない限りそのままでいたい。
…こういう気持ちは臆病というんだろうか。出来るだけ自分を守りたい、という気持ちの現れなんだろうか。たしかに私の心が件の話で傷ついたように、予期せぬ変化は必ずあるし、気づかずに人を傷つけて傷つけられて、または癒し癒されて、心はどんどん変化していくものだとは思う。
けれど声を大にしていいたい。もし何方かが、誰かに「変われ」と言うならばあなたがまず変わってくださいと。または変わった過去を曝け出して下さいと。
自分は棚に上げて他人にだけそれを求めるのはあまりに、卑怯だよ。
そんなことを考えながら、いつか自分に訪れる「ギクッ」の瞬間を空想して凍えそうになる、年の暮れであった。
今日の1曲:Dororo/ASIAN KING-FU GENERATION