親愛なる誰かさんへ。

日常、雑念、世界。

シャボン玉

タバコは吸わない。シャボン玉を吹く。

なぜタバコを吸えない、正しくは吸ったこともないのに吸わないと決めているかというと、肺が汚れるからとか、匂いが気になるとか、色々あるけれど結局は、本当に好きになって、中毒みたいになったら怖いからである。吸っているうちはいいが、妊娠や病気など有無を言わさぬような理由で吸えなくなったら、いったいどうすればいいのか?

きっと苦しいだろう。身を裂かれるような痛みかもしれない。そう考えるとやっぱり、吸えないし、吸わないなと思ってしまう。

 

…こうやって書くと、なんだか恋愛に似ている。怖いからそもそも避けているのに、ひょんなことで出会ってしまって、そこからハマってしまう。そして離別を選んで、狂ったように泣き、暴れる。傷が癒えてきた頃、また新たに出会ってしまう…そんな感じだろうか。

チャットモンチーもたばこという曲を書いている。聞いていると色々な思い出が蘇ってくるけど、それすらもいまは甘美に感じて、泣きながら聞いてみたりする。過去に陶酔するなんてバカバカしいと、記憶の中の自分に笑われて、涙を止める。

結局過去になってしまったら、そのときのどうしようもなさ、空虚さはいつのまにか消えて、「全て充実していた二度と戻らない日々」みたいに感じてしまう。なんだか悔しい。だからそういうときは、わざと苦しい思い出をかきむしって、瘡蓋を剥がしてみる。痛いけど忘れたくないから。

 

タバコは吸わない。シャボン玉を吹く。

昔から行き詰まると、ため息をシャボン玉に乗せて、ふーっと吐いていた。ずしりと重かった胸が、少しずつ軽くなっていく。シャボン玉は儚くて、すぐに消えてしまうから、自分の苦しさも、声にできない叫びも、一緒になって消えていく気がして、肩の力が抜けていく、

これからも進学や就職、色々なイベントとともに、シャボン玉の向こうにある景色は変わっていくだろう。どこにいても、どんなときも、透明な球体たちが飛んでゆくのを見つめれば、自分の生きる日々がここにあることに、確かにここにあることに、気づくのだ。

いくつ消えても、吹けば、また新しい景色。

 

すべて消えたベランダで、ここに私がいる。

生きている。

きっと明日も生きていこう、そう思った。