スリランカで出会った自分
もうあれから2年経つけど未だに毎日のように思う、スリランカの日々を。
2年前の夏、わたしは1人でスリランカ行きの飛行機に乗り込んだ。それまでも数回海外に行ったことはあったけど、横には必ず引率者や家族がいた。たった1人というのは初めてだった。
しかし、本当にいま思い出しても不思議なことに、全然怖さを感じなかった。
飛行機で感じた高揚感は忘れられない。
これから行く場所に、私のことを知ってる人は誰もいないという事実にドキドキしていた。
私は違う人間になるんだ、という気持ちだった…
スリランカでは、世界各地から集まった学生と6週間にわたり、同じプログラムに参加し、同じ家に住み共同生活をした。肌の色はおろか、文化も宗教も慣習も食べ物も違う人びと。もちろん日本人は自分しかいない。
彼らと一緒にいれば、嫌でも「自分」に気づかされる。
まず英語が話せない「私」を自覚した。
日本語で自分に懸命に話しかけた、考えた。そして英語に変換しようと躍起になった。
そのうち、考えて話しているのでは間に合わない、話しながら考えなければ会話についていけないと気づいてから、だんだん片言で少しずつ話せるようになっていった。
次に自分の「こころ」を感じた。
どこか五感というか本能?が研ぎ澄まされてゆく感覚もあった。美味しいもの、そうでないものが匂いでわかる。信頼できる人か、そうでない人か目を見ればわかる。言葉が通じなくても、その人の心は伝わってくる。
スリランカ人の友人に連れられ、近所で開催されていた読経の会(みんなで円になって座り、僧侶の唱えるお経に合わせて自分たちもお経を唱える)に参加したとき、手のひらに感じた熱の感覚も忘れることができない。
目に見えない「気」の流れを感じた出来事だった。
本能が澄んで行くにつれ、どんなときに自分がイライラするのか、嬉しいのか、悲しいのか…
喜怒哀楽にも敏感になった。
そして自分の「閾値」がなんとなくわかるようになった。
慣れない環境で、使い慣れない言語で、関係性のまだ浅い人びとと生活する。時にはトラブルに巻き込まれることもあった。もう1人になりたいと叫びたくなることもあった。
その中で、これ以上頑張ってはだめだ、もう休もう、という基準がなんとなくだが、わかるようになった。休もう、というのは身体的に、というよりも精神的に、という意味で。
それまで限界は無限という言葉を信じていた。でもいまは、心には多分限界があるよ、と思っている。無理に超えると怪我をする。気力、精神力次第で限界の値を少しずつ大きくすることはできるのかもしれないが、無理強いしたらいいことは無い気がする。
そう思い始めてから、それまで抱いていたストレスが少しずつ緩和していった気がする。今でも役に立っている。
最後に私はどこにいても「私」なんだなと思った。
関わる人との関係性によって、人間の性格は変わっていくーそんな話を聞いたことがある。
たしかにそうかもしれない。しかし、6週間スリランカにいて思ったのは、突然自分が日本での性格から大きく変わったりすることはない、ということだった。
最終日に、共同生活を共にした学生たちや、スリランカの友人からもらった手紙には、自分が日本でよく言われることが書かれていたから驚いた。自分のいい部分も、悪い部分も、だいたい同じようなことが書かれていた。
スリランカで過ごす日々が終わる頃には、自分でもわかっていた。
当初願っていた「違う人間になる」どころか、スリランカでは、日本での自分の性格がより色濃く発現していた。前述のように、喜怒哀楽がはっきりし、本能が目覚め、閾値を超えないように生きているのだから、当然といえば当然である。
もちろん、スリランカから帰ってきて、スリランカを経て自分変わったな、と思う部分はいいことも悪いこともある。例えば英語の自分は、日本語の自分より自己主張が多いし、口調も強い(笑)。でも、そんな自分の中にある違いを、今はとても面白いと感じている。
その後も違う国に渡航したが、スリランカで得たほどの気づきは得られなかった。やはり「バックグラウンドのまったく違う学生しかいない」環境が大きかったのだと思う。とにかく刺激的な日々だった。
いつかまた、同じような経験をしてみたい。
そんな日を待っている自分がいる。もちろん、それが想像よりどれだけ大変なのかも、身をもって知っているけれど。
でも、それまで当たり前に感じていた価値観がバリバリ音を立てて壊されてゆくのは、苦痛を通り越してむしろ快感だった。あの感覚を味わうために、たとえ異国の人だらけの環境はなかったとしても、わたしはコロナが収束したらまた外国に行くだろう。
次にスリランカについて書く時は、スリランカで出会った人とのエピソードやら思い出やらを書いていけたらと思います。
ではまた。