親愛なる誰かさんへ。

日常、雑念、世界。

美味しい記憶

タルトトロペジェンヌ。

職場からの道すがら、急にその言葉は降ってきた。

グーグル先生に聞くとNHKの料理番組の名前が出てきた。そうだ、この番組で見た。クリームのたっぷり入ったふわふわのケーキ。その美味しそうな見た目は忘れても、不思議な言葉の響きは忘れていなかったらしい。食べたことはないけれど味の想像だけでわたしはニンマリとする。美味しい紅茶を淹れて、大きな口でひと思いにかぶりつく。きっと充足感で満たされてしあわせになるんだ。その瞬間、世界はわたしだけのもの。この味だけがわたしのすべて。

そんなことを考えていたら数珠繋ぎみたいに美味しい記憶がどんどん降ってくる。

スリランカで食べたスパイシーなカレー。自分で作っても、お店に行っても、いまだ現地の味にかなうものは知らない。最初は辛くて食べられなかったが、数週間の滞在を終える頃にはすっかり虜だった。現地の友人につれられて入った、特別じゃない店のカレーの味は一生忘れない。何が入っているのか、何で出来ているのかよく分からないけれど、何重ものスパイスを感じる。一つとして同じ味がない。混ぜたら味がかなり変わる。なんだこれ。美味しすぎて信じられない。いままで食べたカレーとは全く違う何か。友人にならって手で食べようとしたがうまくいかず失敗し、そんなわたしの姿を無言で見守っていた周囲の客たち穏やかに笑っていたのもいい思い出。

そしてスリランカで飲んだミルクティー。有名な午後のアレなんて全く勝負にならない。濃厚で、でも嫌らしい甘さではなく、口の中で優雅にとろける上品なあじわい。だいたいの定食屋のメニューにミルクティーがあって、どこの店で飲んでも例外なく美味しいのがおもしろかった。無骨な見た目の主人がドン、と無表情でテーブルに置いたミルクティーは、さっき食べたカレーの辛さと調和して、癒しのひとときをわたしにくれた。

あとはフランスで食べたレモンチーズケーキ。街をふらふら歩き、1人で入ったおしゃれなレストラン。周囲はサラリーマンやカップルなど現地の人しかいない。聞こえてくる会話も全く分からない。わたし、本当にひとりだ。心からうずうずして踊りだしたいような叫び出したいような、ワクワクやドキドキを煮詰めた歓喜が湧き上がってきた。すごい、ひとり。日本からはるばる、ここまで来た。

辿々しくメニューを指差し、なんとか肉料理のランチを注文。そして、デザートに選んだレモンのチーズケーキ。ものすごく酸っぱかった。一口目は咳き込んだほど。でもその酸っぱさのあとの、ほんのりとした甘さに、夢中になった。今ならわかるよ、あの甘酸っぱい味は自分の気持ちそのものだった。

美味しい記憶を辿ると笑顔が湧いてくる。口元は緩み、あの味を思い出してたちまち綻ぶ。

毎日いろいろあるけど、これからもおいしい味を心ゆくまでたくさん味わいたい。高級なのもいいけど、ありふれた小さな店に未知との遭遇があることを知っている。食欲は明日への活力。

さあ今日は何を食べようか。明日は何にしようか。洋服の裾を捲って、わたしはキッチンへと一歩踏み出した。