親愛なる誰かさんへ。

日常、雑念、世界。

心、カロリー、マザーグース

感情が邪魔だ。来世はダンゴムシにでもなろうか。耳を塞ぐみたいに、体を丸めて世界を消してしまおう。今よりもう少し楽に生きられるかもしれない。

ダンゴムシには感情もないかもしれないから、私が私であったことは、遠い遠い、あってもなくても同じことになるだろう。

なんにも考えたくない、思いたくない、願わくば目にも耳にも入れたくない。そんな瞬間がじわじわと増えてきた。けれどこの指はいま文字を一心不乱に打っている。この矛盾に、かろうじて、生かされてきたのかなんて、吟遊詩人みたいなことを考える。自虐的すぎて笑える。そんなわけない。文字にしない瞬間のほうがずっと多いよ、本当は。そんな日々だ。

感情が邪魔で、心を動かすのも億劫で、よほど面白くない限り、ドラマや映画は早送りするようになった。本も斜め読み、更には両者に触れる機会が減った。

寂しいと思う反面、仕方ないと諦める気持ちもある。誰かといるときや仕事をしているときに考えたり感情を動かしたりすればいい、それで充分だ。ひとりのときはひたすら眠りたい、なんにも考えたり感じたくない。

そんなのどうかしてる、って自分でも思う。いまだってこの文字を打ちながら、悔しく悲しく思う。

自分でいることを、自分であることを、心の底からいつでも謳歌したいとそう思うのに。

頭のなかであの歌詞が畝る。 

 

"失えない喜びが この世界にあるならば

手放すことすらできない哀しみさえ あたしは

この心の中つまはじきにしてしまうのか?

それは、いやだ!

どうやって この世界を愛せるかな

いつだって 転がり続けるんだろう

ねえ、いっそ 誰も気附かないその想い

この唄で明かしてみようと思うんだよ"

ヒトリエの「アンノウン・マザーグース」(作詞・作曲:wowaka)より。

この曲を聴くと、世界を少し受け容れることができるような気がする。一切皆苦、この世のなにもかもが苦しく思えて心臓が爆ぜる幾つもの瞬間が、この曲に照らされることで初めて七色に光る気がする。

錆びついた感情が少しずつ廻り始めて、ああ自分には今日も心があったんだと知る。

本当にどうやって、心を犠牲にせず、世界を愛することが出来るんだろうか。

毎日考えても答えは出ない。

けれど悩み、考え続けること。

感情を排除して、なかったことにしたい日にも、きっと新しい涙を流して、決して器用に、いつの間にかぜんぶを諦めて忘れてしまわないように。

心のカロリーは使っていれば、栄養不良を引き起こし何も受け付けられなくなったり、かと思えば全て呑みこもうと過食に走ってしまうことも多々ある。ボロ雑巾みたいに擦り切れて何も拭けなくなりゴミのように部屋の片隅に転がっていることも。

そんなときのエネルギーとして、人は音楽というギフトを得たのかもしれないと、アンノウン・マザーグースのサビを聞き、wowwowとマスクの下で一緒に歌いながら、すこし本気で思ってみた。それほどまでにこの曲がわたしの鼓動を支えていると思った夜だった。