親愛なる誰かさんへ。

日常、雑念、世界。

アイデンティティ

不本意な残業中、無数に流れてくる言葉にサカナクションアイデンティティを滑らせて歌っていた(もちろん脳内で)。充たされた。

上滑り、つるつる、それは華麗だった。同じ瞬間に生きていて同じ空気を吸って同じ話を聞いている、共有しているように見えて、まったく違う世界のなかにいる。深刻な空気の中、わたしの頭の中では山口一郎がどうしてと畳み掛けている。誰かの言葉の上に音楽を覆い被せる、これは頭がオーバードーズを起こしそうなとき、学生時代にあみだした(かなりありがちな)現実逃避。ちょっとした自己陶酔みたいで気持ちいい。でも話が全く追えなくなると後々面倒くさいので、要所要所でキーワードだけ耳に入れる。 

きっと誰もが疑わない、相手と自分は同じ話題の上にいると。かくいう私だって、同じ話を繰り返しても、次の日になればすべて忘れられている、そんな出来事をリピートする日々だ。彼等の世界に私はいない。目の前にいるときだけ、かろうじて存在し、視界から消えれば、もれなくわたしの存在も頭から消える、そんな感じで。まるで風かな?隙間風。つめたかったりあつかったり、でも通り過ぎたらすぐに忘れる。

それはむなしい。けれど潔さもある。逆に言えば、目の前に行けばわたしは認識され、人になる。それが仕事上の最低限のアイデンティティなのかもしれない。私じゃなきゃ駄目なんて今は到底思えない。

いつか来るのだろうか?私じゃなきゃ駄目だ!私以外には出来ない!と胸を張って言ったり思ったりできる日が。

生活様式における「音楽を聴かなくても生きていける」みたいな提言とか、仕事とか恋愛における「人に必要とされる人間になりなさい」みたいな格言とか、それはたしかに正論で、アタマでは理解できるが、自分ごとに置き換えると全くもって首肯できないし納得もできない。こういう事柄を、わたしは勝手に「正しくない正論」と呼んでいる。日常に転がる正しくない正論は多くて、気づけば首が絞まっている。いったい幾つになるまで囚われなければいけないのか。そう思いながら、頭の中で歌詞が鳴り響いた。

ーそれが真っ当と思い込んで生きていた

誰がどうしてなんのために正しくない正論を言って、私はどうしてなんのためにそれを正しいと思って飲み込んで、なぜ今になって吐き出そうと懸命にえづいてるのか?

正論が正しいとは限らないと、心のなかで誰かが囁く。それは反骨心?懐疑心?

アイデンティティがないと感じるこの日々にいつか答えは出るんだろうか。

指が痺れてきたので、今日はこのへんで。