親愛なる誰かさんへ。

日常、雑念、世界。

本が好きだ

物心ついたときからいつもそばにあった。

手を伸ばせばどこにでも。

それは違う世界へ続く扉だった。

こどもの頃は、なにが悲しくてなにが嬉しくてなにがさみしいのか、感情のほとんどすべてを教わった気がする。 

生まれてはじめて、本を読んで泣いた日のことは忘れない。ウォーリアーズという物語。

雨の中で本を読んだこともある。唯川恵の「さよなら」が知ってるたくさんのこと。

いつでも開けば、一瞬で世界はすべて、私だけのものになった。

むかし、読書のことを、よく「読み干す」と言っていた。ごくごくと、その世界をすべて味わい尽くす。心ゆくまで、そこにいる。

幸せという言葉は知らなかった。でも、私の時間はいつも本を中心に動いていた。当たり前のように、いつでも手を伸ばせばそこにあったから。

読んでいないとき・読めないときでも、本はずっとわたしの世界だった。

けれど、歳を重ねるに連れ。

「現実に夢見すぎ。恋愛小説の読み過ぎ?」

「ただ現実逃避に使ってるだけ」

「本は賢いっていうイメージに縋り付きたいだけでは?」

「本が好きなんじゃなくて、本が好きな自分に陶酔しているだけでは?」

誰かに言われたわけではなくても、そんな言葉が心に浮かんでは消えを繰り返す。

もうあの頃のように、何も考えずに世界に没入することはできないのかもしれない。 

そう思っても、本から離れることはできなかった。本屋に通い、読まない本を買っては、積む。昔に比べ格段に読書量は減ったけれど、外出時には本が無ければ落ち着かない。たとえずっとスマホと見つめ合っていたとしても。

そして、また、本が、私に手を伸ばした。

そうだ、本に手を伸ばしているようで、いつも、本に選ばれている。

そして、また、私は少しずつ、本を読み始めた。

雑念をひとり綴っていたこのブログにも、読書感想文や本のあれこれを載せていければと思っている。

本が好きだと叫びたい、そんな気持ちのままに。

不器用と純朴

好き/嫌い

いい/いや

どっちでもいい/どうでもいい

このあたりの線引が、頭の中がぐちゃぐちゃだと上手く出来なくなる。ごちゃまぜになる。

そういうときは大概なにをしても徒労に終わり、心労で疲れ切っているので、まず寝る。

ただ、寝ても、朝は来てしまう。

同じ日々の繰り返しが、億劫で仕方ない。そんな重たい気持ちを明るくするような光を求めて、本や映画、友人や家族との逢瀬、そして文章の世界に走ってみたり。

ただ、それすらもやる気が起きないときもある。こうなると厄介だ。そしてその期間が続くと、ついに自暴自棄になる。すべてが嫌になりやる気をなくし、そんな自分を嫌いになってさらにやる気をなくす…エンドレス。

けれど結局は、自分自身とのタイマンで解決した。つまりそれが好きなのか嫌いなのか?どっちでもいい、どうでもいい、は無しだ。白か、黒か。文字にして、ときには誰かに聞いてもらい言葉にして、身のまわりのものや、悩んでいる事柄や降りかかる問題について、考えてみた。

そうしたらもう、基準は単純明快。

幸せなのかどうかだった。

苦しかろうがしんどかろうが、幸せや喜びがあり、それが苦痛を凌駕するなら、幸せだろう。でも、苦しみが勝るなら?痛みが消えないなら?

…もうとっくに答えは出ていた。

疲れのせいにして、考えることを放棄して、間違った方向なのに、それでいいとひた走り、やっぱり転んで、血を流す。

無駄だとは思わない。けれどできれば、流す血は少ない方がいい。

不器用だねとよく言われる。手先もだし、生き方が。だけど、理解するのに時間がかかるタイプなのはこどもの頃から変わらない。性格だ、と割り切ったら楽になった。あとはこんな性格を、どう活かすか、どう捉えるか。こんなふうに後退と前進を繰り返しながら、少しずつ自分を好きになりたいなと思った。そして願わくば、自分を囲むその世界をも。

心、カロリー、マザーグース

感情が邪魔だ。来世はダンゴムシにでもなろうか。耳を塞ぐみたいに、体を丸めて世界を消してしまおう。今よりもう少し楽に生きられるかもしれない。

ダンゴムシには感情もないかもしれないから、私が私であったことは、遠い遠い、あってもなくても同じことになるだろう。

なんにも考えたくない、思いたくない、願わくば目にも耳にも入れたくない。そんな瞬間がじわじわと増えてきた。けれどこの指はいま文字を一心不乱に打っている。この矛盾に、かろうじて、生かされてきたのかなんて、吟遊詩人みたいなことを考える。自虐的すぎて笑える。そんなわけない。文字にしない瞬間のほうがずっと多いよ、本当は。そんな日々だ。

感情が邪魔で、心を動かすのも億劫で、よほど面白くない限り、ドラマや映画は早送りするようになった。本も斜め読み、更には両者に触れる機会が減った。

寂しいと思う反面、仕方ないと諦める気持ちもある。誰かといるときや仕事をしているときに考えたり感情を動かしたりすればいい、それで充分だ。ひとりのときはひたすら眠りたい、なんにも考えたり感じたくない。

そんなのどうかしてる、って自分でも思う。いまだってこの文字を打ちながら、悔しく悲しく思う。

自分でいることを、自分であることを、心の底からいつでも謳歌したいとそう思うのに。

頭のなかであの歌詞が畝る。 

 

"失えない喜びが この世界にあるならば

手放すことすらできない哀しみさえ あたしは

この心の中つまはじきにしてしまうのか?

それは、いやだ!

どうやって この世界を愛せるかな

いつだって 転がり続けるんだろう

ねえ、いっそ 誰も気附かないその想い

この唄で明かしてみようと思うんだよ"

ヒトリエの「アンノウン・マザーグース」(作詞・作曲:wowaka)より。

この曲を聴くと、世界を少し受け容れることができるような気がする。一切皆苦、この世のなにもかもが苦しく思えて心臓が爆ぜる幾つもの瞬間が、この曲に照らされることで初めて七色に光る気がする。

錆びついた感情が少しずつ廻り始めて、ああ自分には今日も心があったんだと知る。

本当にどうやって、心を犠牲にせず、世界を愛することが出来るんだろうか。

毎日考えても答えは出ない。

けれど悩み、考え続けること。

感情を排除して、なかったことにしたい日にも、きっと新しい涙を流して、決して器用に、いつの間にかぜんぶを諦めて忘れてしまわないように。

心のカロリーは使っていれば、栄養不良を引き起こし何も受け付けられなくなったり、かと思えば全て呑みこもうと過食に走ってしまうことも多々ある。ボロ雑巾みたいに擦り切れて何も拭けなくなりゴミのように部屋の片隅に転がっていることも。

そんなときのエネルギーとして、人は音楽というギフトを得たのかもしれないと、アンノウン・マザーグースのサビを聞き、wowwowとマスクの下で一緒に歌いながら、すこし本気で思ってみた。それほどまでにこの曲がわたしの鼓動を支えていると思った夜だった。

 

アイデンティティ

不本意な残業中、無数に流れてくる言葉にサカナクションアイデンティティを滑らせて歌っていた(もちろん脳内で)。充たされた。

上滑り、つるつる、それは華麗だった。同じ瞬間に生きていて同じ空気を吸って同じ話を聞いている、共有しているように見えて、まったく違う世界のなかにいる。深刻な空気の中、わたしの頭の中では山口一郎がどうしてと畳み掛けている。誰かの言葉の上に音楽を覆い被せる、これは頭がオーバードーズを起こしそうなとき、学生時代にあみだした(かなりありがちな)現実逃避。ちょっとした自己陶酔みたいで気持ちいい。でも話が全く追えなくなると後々面倒くさいので、要所要所でキーワードだけ耳に入れる。 

きっと誰もが疑わない、相手と自分は同じ話題の上にいると。かくいう私だって、同じ話を繰り返しても、次の日になればすべて忘れられている、そんな出来事をリピートする日々だ。彼等の世界に私はいない。目の前にいるときだけ、かろうじて存在し、視界から消えれば、もれなくわたしの存在も頭から消える、そんな感じで。まるで風かな?隙間風。つめたかったりあつかったり、でも通り過ぎたらすぐに忘れる。

それはむなしい。けれど潔さもある。逆に言えば、目の前に行けばわたしは認識され、人になる。それが仕事上の最低限のアイデンティティなのかもしれない。私じゃなきゃ駄目なんて今は到底思えない。

いつか来るのだろうか?私じゃなきゃ駄目だ!私以外には出来ない!と胸を張って言ったり思ったりできる日が。

生活様式における「音楽を聴かなくても生きていける」みたいな提言とか、仕事とか恋愛における「人に必要とされる人間になりなさい」みたいな格言とか、それはたしかに正論で、アタマでは理解できるが、自分ごとに置き換えると全くもって首肯できないし納得もできない。こういう事柄を、わたしは勝手に「正しくない正論」と呼んでいる。日常に転がる正しくない正論は多くて、気づけば首が絞まっている。いったい幾つになるまで囚われなければいけないのか。そう思いながら、頭の中で歌詞が鳴り響いた。

ーそれが真っ当と思い込んで生きていた

誰がどうしてなんのために正しくない正論を言って、私はどうしてなんのためにそれを正しいと思って飲み込んで、なぜ今になって吐き出そうと懸命にえづいてるのか?

正論が正しいとは限らないと、心のなかで誰かが囁く。それは反骨心?懐疑心?

アイデンティティがないと感じるこの日々にいつか答えは出るんだろうか。

指が痺れてきたので、今日はこのへんで。

福を貰った話

今日は人生初の、女性アイドルのチェキ会、トーク会参加記念日でした。

一日中会場周辺を歩き回り(待ち時間を潰すため)筋肉痛で疲れているにもかかわらず、ツイッターでは飽き足らずわざわざブログまで書いている理由はたった一つ。

譜久村聖さんありがとう!

それしかないです。起承転結何も無し。

 

嗣永桃子さんからハロプロへと導かれた私は、譜久村さんにBerryz工房にちなんだチェキのポーズを取ってもらいたいと、チェキ会参加券を無事購入できたその日からずーっと考えていた。

ブースに入って、目の前にいるのが譜久村さんであると認識するまでたぶん3秒くらい掛かった。あれ譜久村さんだよね?あれ譜久村さん?あ、写真あっマスクあっバイバイ!

…現実だとは信じられなかったけれど、だんだんスタッフに渡された紙切れから譜久村さんの姿が浮かび上がるにつれ、さきほどの出来事が夢ではないことを噛みしめる。

念願叶い、譜久村さんの「のにゅ」ポーズのチェキを獲得できた。

ブースから出る直前、譜久村さんにバイバイをしたとき、ものすごくひさしぶりに、自分でいま自分の目が輝いていると分かった。

幸せ過ぎて目が輝くなんて何歳ぶりか?

それくらい、瞳いっぱいに推しが映った瞬間、同じ場所に存在していたこと、目の前のすべてが輝いて感じられた。

こんな人間がこんな尊い人に会っていいのだろうかとも考えたが、そこはみんなお金を払ってその場に参加しているという点で平等だと考え、納得する。推しのことでネガティヴにはなりたくない。そして気づく、譜久村さんにはいつもポジティブな気持ちをもらっている、沢山の幸せを貰っていると。譜久村さんのことで嬉し泣きしたこと、感動で泣いたことはあれど、悲しみや孤独感を抱いたことはない。

まさにアイドル。世界中の人を笑顔にする、勇気づける、太陽みたいな人だ。

 

数時間待機してのトーク会では、満面の笑顔の譜久村さんを見た瞬間泣きそうになったが、なんとか日頃の感謝を伝えることができた。ああ…(感慨に浸る)

トーク内容を思い出すだけで笑顔溢れる。周囲の人間にどう思われてもどうでもいい。マスクしていてもわかるくらい、にやけて浮かれモードでも、しょうがない。だってわたしは推しに会えたのだ。

推しの「頑張って!」という声、笑顔、仕草、全て脳内再生無限リピートできる今、今がとても嬉しくてたまらない。

その笑顔に救われている世界の人々のうちの1人であること、とても誇りに思う。

譜久村さん、いつも元気をありがとう。譜久村さんが明日も明後日も幸せでいられますように、心から願います。

また盛り沢山会参加できますように!明日からも日々生きます。そして働きます。チェキ会代もトーク会代も決して安くないけれど、また参加したいから。次にお会いするときには一体何を話そうか考えるだけで、わたしはたちまちシアワセになる。笑顔でまた、会えますように。

美味しい記憶

タルトトロペジェンヌ。

職場からの道すがら、急にその言葉は降ってきた。

グーグル先生に聞くとNHKの料理番組の名前が出てきた。そうだ、この番組で見た。クリームのたっぷり入ったふわふわのケーキ。その美味しそうな見た目は忘れても、不思議な言葉の響きは忘れていなかったらしい。食べたことはないけれど味の想像だけでわたしはニンマリとする。美味しい紅茶を淹れて、大きな口でひと思いにかぶりつく。きっと充足感で満たされてしあわせになるんだ。その瞬間、世界はわたしだけのもの。この味だけがわたしのすべて。

そんなことを考えていたら数珠繋ぎみたいに美味しい記憶がどんどん降ってくる。

スリランカで食べたスパイシーなカレー。自分で作っても、お店に行っても、いまだ現地の味にかなうものは知らない。最初は辛くて食べられなかったが、数週間の滞在を終える頃にはすっかり虜だった。現地の友人につれられて入った、特別じゃない店のカレーの味は一生忘れない。何が入っているのか、何で出来ているのかよく分からないけれど、何重ものスパイスを感じる。一つとして同じ味がない。混ぜたら味がかなり変わる。なんだこれ。美味しすぎて信じられない。いままで食べたカレーとは全く違う何か。友人にならって手で食べようとしたがうまくいかず失敗し、そんなわたしの姿を無言で見守っていた周囲の客たち穏やかに笑っていたのもいい思い出。

そしてスリランカで飲んだミルクティー。有名な午後のアレなんて全く勝負にならない。濃厚で、でも嫌らしい甘さではなく、口の中で優雅にとろける上品なあじわい。だいたいの定食屋のメニューにミルクティーがあって、どこの店で飲んでも例外なく美味しいのがおもしろかった。無骨な見た目の主人がドン、と無表情でテーブルに置いたミルクティーは、さっき食べたカレーの辛さと調和して、癒しのひとときをわたしにくれた。

あとはフランスで食べたレモンチーズケーキ。街をふらふら歩き、1人で入ったおしゃれなレストラン。周囲はサラリーマンやカップルなど現地の人しかいない。聞こえてくる会話も全く分からない。わたし、本当にひとりだ。心からうずうずして踊りだしたいような叫び出したいような、ワクワクやドキドキを煮詰めた歓喜が湧き上がってきた。すごい、ひとり。日本からはるばる、ここまで来た。

辿々しくメニューを指差し、なんとか肉料理のランチを注文。そして、デザートに選んだレモンのチーズケーキ。ものすごく酸っぱかった。一口目は咳き込んだほど。でもその酸っぱさのあとの、ほんのりとした甘さに、夢中になった。今ならわかるよ、あの甘酸っぱい味は自分の気持ちそのものだった。

美味しい記憶を辿ると笑顔が湧いてくる。口元は緩み、あの味を思い出してたちまち綻ぶ。

毎日いろいろあるけど、これからもおいしい味を心ゆくまでたくさん味わいたい。高級なのもいいけど、ありふれた小さな店に未知との遭遇があることを知っている。食欲は明日への活力。

さあ今日は何を食べようか。明日は何にしようか。洋服の裾を捲って、わたしはキッチンへと一歩踏み出した。

噴火

今ものすごく怒っている

沸々とマグマみたいに沸き上がる

全世界に嫌だと叫びたいくらいに

いらいらするのだ

ずっと心のなかにあったやるせなさが

今わたしを呼んでいるみたいだ

 

人生ぜんぶタイミングによるとか、ぜったい、そんなんじゃないよと叫びたい

根拠はない、経験もたくさんない、だけど、そんなんじゃない

そんなんじゃないよ

自分で引き寄せなきゃ

空気読めなくても、たとえ今じゃないとしても、失敗しそうとわかっていても、間違える未来が見えていても、飛び込んで頭突して主張しないと始まらないときがある

 

安全な場所にいつもいる、守られてる、だとしても生ぬるい笑顔で、にやけながら、悩みないです、平和で幸せです、日本に生まれてよかったですとか、絶対に言いたくない

 

得たもの?そんなの知らないし

わたしの守ってきたものをバカにしないでよ

それは宝なんだ

あなたにはどんなに馬鹿馬鹿しく映ったとしても

あなたにとっては粗大ごみみたいに邪魔でめんどくさいものだとしても

それはそこにしかないの

心にしかないの

 

ぜんぶ知った気になって。わかった気になって。なんでもそうやって否定していたらわからなくなってしまう。

そこに、いつまでも、いられると思わないで。そこに、いないで。

進むのは若さゆえ、留まったままで石になりたくないから、いつまでもここにはいない。